ひだまり泥んこ日記*2巻

ヒロシマ安藝地方 矢野という地で里山を駆けまわり泥んこにまみれる保育園の園長戯れ言ブログ 1巻はYahoo!で継続中

人生の必然

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春は別れと出会いの季節。

4年あまり大切に大切に育ててきた子達が

巣立っていった。

なんか、不思議。

まだ実感がない。

 

いつだって別れは寂しい。

旅立つ人は、新しい場所での出会いが待っていると分かっているから

新しい自分に向かっての変化だから

良いなと思う。

 

保育園という場所は、通過施設だ。

どんどん入ってきて、どんどん去って行く。

保育士は、そこにとどまる。

とどまり続け、働きかけ続けるのが仕事だ。

こどもが育っていき、自分を言祝ぐのを見る幸せを味わい

その姿を目を細めて見ている保護者さんと共にある幸せを味わう。

それでも こどもたちは

私たちを必要としなくなり、巣立っていく。

そうなることが、保育の仕事の目的なんだから仕方ない。

 

一方、働く仲間もそうだ。

どんどん入ってきて、どんどん去って行く。

人が去って行くというのは、

うちの職場の労働条件が最悪なのも

私が人と一緒に働くのが苦手なのも原因だろうと思われるのだが

これまで10年たくさんの職員が入ってきて去って行った。

 

こどもにせよ、おとなにせよ

私の思いとは別の所で

人はやってきて 去って行く。

川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず である。

執着心の強い私は、長くそれで心をかきむしられてきた。

発達障害がゆえに?私は人が去って行くのを全て自分のせいにしてきた。

私が至らないから、人は私から去って行くのだと思えてしまうのだ。

私がもう少しましな人間だったら、人は私を捨てないだろうに…と。

なんで私を捨てるの?

なんで私から離れるの?

と、離れていく人たちに執着し続けていたのだと、

この頃ようやく気がついた。

 

そしてほんの少し そうでもないのかもしれない

私が至らないから去って行くわけではない。

ああ、もちろんそういう要素もあるかもしれないが

人が去るのはそれだけの理由ではないと思う様になってきた。

ましてや、捨てられた訳でもないのだと。

 

人は、やってきて去って行くものなのだ。

それは誰にとっても、同じなのだ。

私が至らぬ人間だからでもなく

私が保育園で働いているからでもなく

人はやって来て去って行くものなのだろうな。

やって来るのにも

去って行くのにも 必然的な理由があるのだ。

いや、理由は無く、必然があるだけなのかもしれない。

 

私が自分の人生をどうにかできるわけでもなし、

私が人の人生をどうにかできるわけがない。

ならば

自分の執着を早く捨て去る方が 気が楽だ。

別れと出会いを楽しむことができるほうが 人生楽しい。

 

少し前、私にとってとても大切な人が去って行った。

その人はちょっと傷ついてもいた。

私はずっと自分を責めてきた。

でも、その人は私が自分を責めることで胸を痛めていた。

「自分が去ることで、ダンジョーは自分を責めるだろう

でも自分は去るという道しか選べない」そうやって去って行った。

ならば

私は自分を責めないことで 

大切な人の胸を痛めずにすむのだ。

不思議な気持ちがする。

私が自分を責めないことで 人が幸せになる?

案外、これは たくさんの物事に当て嵌まるのかもしれないな。